雷電為右衛門の死因について、いろいろな説が語られているのをご存じですか?僕も記事を書くにあたり色々と調べてみたんですが、その議論の幅広さに驚きました。
元力士のしんざぶろうです。こんにちは!
雷電為右衛門(らいでん ためえもん)――
その名を聞けば、相撲ファンなら誰もがその偉大さを思い浮かべることでしょう。江戸時代に生きた雷電は、圧倒的な強さと体格で相撲史に輝かしい足跡を残しました。
しかしその死因ついては、謎や議論が多く、彼の生涯は多くの物語に彩られています。今回は、そんな雷電の死因にまつわる謎や説を、しんざぶろう視点でわかりやすくお伝えしていきます!
ぜひ最後までお付き合いくださいね。
力士最強とも称された雷電の死因かぁ。そんなに強い人が、どんな理由で亡くなったのか気になるね。
- 雷電為右衛門の死因とその時代背景
- 江戸時代に流行していた感冒や感染症とその影響
- インフルエンザで亡くなった力士
- 谷風梶之助と雷電為右衛門の関係性
- 雷電為右衛門の晩年の功績と波乱
- 雷電為右衛門の墓や顕彰碑
雷電の死因について
雷電為右衛門は、1767年に信濃国で生まれ、1825年に59歳で亡くなりました。
その死因について、結論から言いますと
- 具体的な記録が残っておらず、詳細はわかっていません
これは、江戸時代の記録が限られているため、彼の健康状態や死因については推測に頼らざるを得ないという現状があるからです。
そして、ウイキペディアでも以下のように記述されています。
死因などの詳細を伝える資料は少なく(文政年間当時流行していた感冒で死去したという説が最も有力だったが、最近[いつ?]覆された模様である[誰によって?]。)、墓所も赤坂の報土寺に存在するが、生地である長野県東御市の関家の墓地、妻・八重の郷土である千葉県佐倉市の浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓と称するものがある。
このように雷電の死因については、いまだに議論が続いており、多くの謎が残されている点は興味を引きますね。
ちなみに私の意見としても、当時の状況を踏まえると、流行していた感冒(風邪の一種)や感染症が原因で亡くなったのではないかと考えています。江戸時代には医療が未発達で、流行病によって多くの人が命を落とすことも珍しくなかったからです。
- 雷電為右衛門(1767-1825)は59歳で亡くなり、死因の詳細は不明
- 江戸時代の記録が限られており、感冒や感染症が原因だったとされる説が有力
- 当時の医療は未発達で、流行病で命を落とすことが多かった時代
とはいえ、現在も議論が続いている状況を踏まえると、他にも考えられる可能性があると言えるでしょう。次の章では、感冒や感染症以外の説について掘り下げていきます。
雷電の死因:感冒や感染症以外の可能性を探る
この章では、雷電為右衛門の死因として感冒や感染症以外に考えられる説を8つ挙げていきます。ただし、これらの説は記録や証拠に基づくものではなく、あくまで推論に過ぎない点をご承知ください。
1.心臓疾患説
まず考えられるのは、心臓疾患による突然死です。雷電の巨体は、心臓に大きな負担をかけた可能性が高いとされ、現代医学でも、大柄な体格の人は高血圧や心臓肥大を引き起こしやすいことが知られています。
さらに、晩年の雷電は相撲頭取として多忙を極めていました。藩の交渉や力士の管理に奔走する日々が、心臓に過剰な負担をかけ、命を縮める要因となった可能性が考えられます。
2.腎不全説
当時の力士は、塩分の多いちゃんこ鍋や大量の白米を摂取する食生活を送っていました。これが腎臓に負担をかけ、慢性的な疾患を引き起こしたとする説です。
特に、腎不全が進行すると老廃物が体内に蓄積し、全身に悪影響を及ぼします。もし雷電が腎疾患を抱えていた場合、感染症や他の病気が引き金となり、急速に悪化した可能性があります。
3.糖尿病や代謝疾患説
巨体を持つ雷電は、糖尿病のリスクが高かったと考えられます。当時の医療では血糖値を測る術がなく、糖尿病が認識されていなかったため、症状が見過ごされていた可能性があります。
糖尿病は免疫力を低下させるだけでなく、末期には腎不全や心不全を招くこともあります。これらの合併症が重なり、命を奪った可能性も否定できません。
4.外傷や事故説
現役時代から引退後にかけて、相撲関連の活動中に見えない形で大きな怪我を負った可能性があります。
当時の医療では外傷の処置が不十分で、感染症や血行障害を引き起こすことがありました。これが晩年の体力低下を加速させた可能性もあるでしょう。
5.栄養不良や生活習慣の影響説
引退後に生活が変わり、食生活が乱れたことで栄養バランスが崩れた可能性があります。当時の力士は、ビタミンやミネラルが不足しがちで、免疫力の低下を招きやすかったと考えられます。
また、江戸時代の衛生環境や医療技術の不足が、病気の治癒を妨げる要因になったとする説もあります。
6.精神的ストレスによる健康悪化説
引退後も藩の頭取として多忙な生活を送った雷電は、精神的な負担も大きかったはずです。藩の政治的圧力や力士問題に悩まされ、ストレスが体調を崩す原因となった可能性があります。
ストレスが病の直接的な原因として記録されることはありませんでしたが、その影響は小さくなかったと推測されます。
7.毒殺や暗殺説(陰謀論的な見方)
雷電のように強大な影響力を持つ人物が、政治的陰謀に巻き込まれた可能性も考えられます。特に、江戸時代の相撲界は藩とのつながりが強く、政争や派閥争いに巻き込まれることがありました。
この説に具体的な証拠はないものの、幕府や藩主に対する行動が反感を買い、陰謀に巻き込まれたという推測もゼロではありません。とはいえ、あくまで可能性の一つとして考えられる説にとどまります。
8.老衰説
江戸時代の平均寿命は50歳前後とされており、雷電が59歳まで生きたこと自体が当時としては長寿でした。
体力の衰えや免疫力の低下により、特定の病気というよりも、自然な老衰で亡くなった可能性も十分考えられます。
このように、雷電の死因についてはさまざまな説が挙げられますが、これらの推論を裏付ける確証はありません。
それでも、彼の巨体や生活習慣が死因に関係していると考えると、当時の医療や衛生環境の限界が見えてきます。特に、江戸時代には感染症が頻繁に流行し、人々の健康に大きな影響を与えていました。
それでは実際に、江戸時代の感染症がどのように人々の生活に影響を与えていたのか、次の章から見ていきましょう。
江戸時代に流行していた感染症
江戸時代には、感冒をはじめとするさまざまな感染症が頻繁に流行し、人々の生活や健康に深刻な影響を与えていました。その中でも、当時の社会や文化、さらに信仰にまで影響を及ぼしたこれらの病について詳しく見ていきます。
江戸時代(1603年~1868年)は、医療や衛生環境が未発達で、多くの人々が感冒(風邪やインフルエンザ)などの病に苦しめられていました。特に感冒は繰り返し大規模な流行を起こし、社会全体に大きな影響を与えた代表的な病の一つです。
- 感冒の流行
⇒ 江戸時代には、インフルエンザとみられる感冒が何度も猛威を振るいました。例えば享保年間(1716年頃)には江戸で風邪が流行し、ひと月で8万人以上が亡くなったとの記録もあります。 - 異名での記憶
⇒ 江戸の人々は、流行する風邪に異なる名前を付け、その悲惨さを記憶に留めました。たとえば明和6年(1769年)の「稲葉風」や安永5年(1776年)の「お駒風」がその一例です。 - 天然痘やコレラ
⇒ 天然痘は幼児の命を奪う大きな要因となり、またコレラは1858年に大流行し、都市はパニックに包まれました。 - 疫神の祭り
⇒ 感冒が広がると、人々は「疫神」を海へ流すことで病気を追い払おうとしました。この風習は、当時の感染症に対する知識不足を象徴するものです。
このように、江戸時代には感染症が頻繁に流行し、社会や人々の信仰、日常生活にも大きな影響を与えたのです。
インフルエンザで亡くなった力士
それでは、実際にインフルエンザ(流行性感冒)がどのように当時の相撲界に影響を与えたのか見てみましょう。
紹介するのは、江戸時代の大横綱
- 谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)
彼は1795年2月27日、44歳の若さで急逝しましたが、その死因は当時江戸市中で猛威を振るっていたインフルエンザとされています。この病気は「御猪狩風」(おいかりかぜ)と呼ばれ、相撲界にも大きな衝撃を与えました。
また、谷風は生前「土俵でわしを倒すことはできない。倒れているところを見たいなら、わしが風邪にかかった時に来い」と豪語していたといいます。この言葉がきっかけで、当時流行していた風邪が「タニカゼ」と呼ばれるようになり、谷風の存在感がどれほど強かったかが伺えます。
谷風の死因となったインフルエンザは「御猪狩風」と呼ばれていましたが、彼のエピソードに由来する「タニカゼ」とは別のものであり、これらは混同されることがある。
このように谷風の死因にまつわるエピソードを紹介しましたが、次に彼の生い立ちや業績についても簡単に触れていきますね。
谷風梶之助について
谷風梶之助は、江戸時代中期から後期にかけて活躍し、実質的に初代横綱とされる力士です。1750年に陸奥国宮城郡霞目村(現在の仙台市)で生まれ、本名は金子与四郎。
1769年に初土俵を踏み、伊達関、達ヶ関(だてがせき)と改名を重ね、1776年には「谷風梶之助」を名乗るようになります。
横綱在位は1789年11月から1795年2月の亡くなるまでの約4年間にわたり、その間に63連勝を達成。生涯成績は258勝14敗を記録しました。優勝相当成績も21回に及び、圧倒的な強さから「天下無敵」と称されました。
また、谷風は人格者としても知られ、数々の美談が語り継がれています。江戸の人々に愛されたその人柄と功績は、後の力士たちにも多大な影響を与え、相撲界の模範とされています。
そんな大横綱がインフルエンザでなくなってしまうなんて…
当時のファンはショックが大きかっただろうなぁ。
谷風梶之助は、1784年に江戸にやってきていた雷電為右衛門を内弟子として迎え入れました。当時の角界を代表する力士だった谷風は、雷電の素質を見抜き、厳しい稽古を通じてその才能を開花させていったのです。
ちなみに、現代の横綱に求められる品格などを特集した記事がこちらにありますので、ぜひ一度ご覧ください。
雷電為右衛門の引退後
雷電為右衛門の晩年は、相撲界や松江藩との関わりが色濃く、さまざまな功績と苦労を重ねた時期でした。その活動を振り返ると、彼の生涯がいかに波乱に満ちたものであったかが伺えます。
- 1811年:松江藩主・松平斉恒の許可を得て現役引退。同時に藩の相撲頭取に任命され、他藩の力士勧誘や番付交渉を任されましたが、思うような成果を挙げられなかった
- 1814年:報土寺の再建に尽力し、梵鐘を寄贈。しかし、この活動が幕閣の反感を買い、江戸払いに処されてしまう
- 1815年:半現役状態であったが49歳で完全に土俵を去り、頭取として抱える力士や藩との調整に専念する日々を送る
- 1819年:相撲頭取を辞職し、松江藩との縁を切りますが、その後も旧主の葬儀を遠くから見送るなど、藩への敬意を忘れなかった
- 1823年~1824年:再び力士の発掘に取り組み、稲妻雷五郎や鳴滝文右エ門といった有望な力士を育成する
これらの活動を経て、雷電は相撲界に多大な影響を与えましたが、波乱に満ちた晩年でもありました。1825年、59歳で亡くなった彼の墓は各地に残り、今もその偉業が語り継がれています。
また、雷電為右衛門の巨体や伝説的なエピソードをまとめた記事もあります。興味のある方は、ぜひチェックしてみてください!
雷電為右衛門の墓と顕彰碑
雷電為右衛門の墓や顕彰碑は、日本各地に点在しており、各地の人々によってその偉業が称えられています。ここでは、雷電ゆかりの地に残る代表的な墓や碑を簡潔にご紹介します。
- 東京都港区赤坂・報土寺
雷電の墓が現存しています。東京都内にある数少ない墓所の一つです。 - 千葉県佐倉市臼井台・妙覚寺
妻の八重や幼くして亡くなった子どもと共に眠る墓。佐倉市臼井台の妙覚寺の奥に位置しています。 - 長野県東御市大石・関家の墓地
雷電の生地である東御市大石に位置し、関家の墓地に雷電の墓が置かれています。法名は「雷聲院釋関高為輪信士」です。 - 島根県松江市・月照寺の顕彰碑
松江城西側にある月照寺には、雷電の手形を刻んだ顕彰碑が建てられています。この碑文は、小説『雷電』の著者・尾崎士郎によるもので、雷電と松平不昧公の関係に言及しています。 - 島根県松江市・西光寺
松江藩主・松平斉貴公の命により建立された墓です。雷電の跡を継いだ力士・朝風も共に祀られており、雷電の遺髪が埋められていると伝えられています。
なお、雷電為右衛門に関する資料やお墓については、以下の「雷電:生誕250年記念サイト」でも紹介されています。興味のある方は、ぜひご覧ください。
全国各地にお墓があるなんて本当にすごいわ。それだけ雷電が相撲界で偉大な功績を残した証拠ともいえるわね。
まとめ
雷電為右衛門は、その強さだけでなく、生涯を通じて相撲界に大きな影響を与え続けました。晩年の波乱や社会との関わりもまた、彼の人間味を感じさせる一面ですね。
そして、各地に点在する彼の墓や碑は、多くの人々にその偉業を伝える証として、今なお大切に守られています。
彼の人生をたどることで、相撲の歴史だけでなく、当時の社会や文化についても知ることができます。ぜひ雷電ゆかりの地を訪れ、その足跡に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
今回も、最後までお読みいただきありがとうございました。
また、次回の記事でお会いしましょう。