相撲の歴史年表|起源から若貴ブーム・令和の横綱まで元力士が解説
僕が相撲の世界を目指したきっかけは、若貴ブームでした。
ただ、相撲ファンを夢中にさせた時代は、若貴のときだけではありません。双葉山の連勝に沸いた時代があり、テレビ中継を通して栃若や柏鵬の取組を家庭で見守った時代もありました。
振り返ると、それぞれの時代に、その時代を象徴する力士たちがいました。
こんにちは!元力士のしんざぶろうです。
相撲の起源は、『古事記』や『日本書紀』に記された力くらべの神話までさかのぼります。日本相撲協会も、相撲を1500年以上の歴史を持つものとして紹介しています。
では、神話の力くらべは、どのように今の大相撲へつながり、昭和以降はどんな力士が相撲人気を支えてきたのでしょうか。
この記事では、相撲の歴史を年表で整理し、若貴ブームをきっかけに入門した僕自身の経験も交えて解説します。
相撲の歴史って、神話の時代から始まるんですね!
若貴より前にどんな横綱がいたのか、年表で一気に知れるのが楽しみです。
相撲の歴史年表。古代から令和までの流れ
相撲の歴史には、神話の時代から令和まで1500年以上の幅があります。起源とされる力くらべの神話から、神事、宮中の行事、武士の鍛錬を経て、江戸時代には職業として相撲を取る人たちが現れました。
さらに明治以降は会場や組織が整い、昭和に入るとラジオやテレビによって取組が全国へ届けられるようになります。その流れを、古代から令和まで一つの表に並べると次のようになります。
※スマートフォンでは、表を横にスクロールできます
| 時代 | 年 | 出来事 |
|---|---|---|
| 古代 | 712年・720年 | 『古事記』『日本書紀』に力くらべの神話が記される。相撲の起源とされる |
| 奈良〜平安 | 734年ごろ〜1174年 | 天皇が宮中で相撲を見る「相撲節会」が行われる。今の大相撲の原型 |
| 鎌倉〜戦国 | 武士の戦闘の訓練として相撲が行われる | |
| 鎌倉 | 1189年 | 源頼朝が鎌倉の八幡宮で上覧相撲。記録に残る最初の上覧相撲とされる |
| 戦国 | 1570〜92年 | 織田信長が安土城などで上覧相撲を催す |
| 江戸 | 1684年 | 深川八幡宮で勧進相撲が許可される |
| 江戸 | 1791年6月 | 11代将軍徳川家斉が江戸城吹上で上覧相撲。谷風・小野川・雷電の時代に大相撲の基礎が固まる |
| 明治 | 1909年6月 | 両国の回向院の一画に国技館が開館。晴天十日の興行が、天候にかかわらず10日間に |
| 大正 | 1925年12月 | 財団法人大日本相撲協会が誕生 |
| 昭和 | 1927年1月 | 東京・大阪の両相撲協会が合併 |
| 昭和 | 1928年1月 | ラジオの相撲中継が始まる。仕切り時間を制限し、仕切り線を設定 |
| 昭和 | 1936〜39年 | 双葉山が69連勝。1938年1月から横綱 |
| 昭和 | 1944年2月 | 国技館が軍に接収される |
| 昭和 | 1945年3月 | 空襲で国技館が被災。12月には進駐軍に接収される |
| 昭和 | 1950年1月 | 建設中の蔵前国技館(仮設)で本場所を開く |
| 昭和 | 1953年5月 | テレビの相撲中継が始まる |
| 昭和 | 1954年9月 | 蔵前国技館が完成。相撲博物館も開館 |
| 昭和 | 1950年代後半 | 栃錦と初代若乃花の「栃若時代」 |
| 昭和 | 1957年 | 11月に九州場所が加わり、年5場所に |
| 昭和 | 1958年 | 7月に名古屋場所が加わり、年6場所に |
| 昭和 | 1960年代 | 柏戸と大鵬の「柏鵬時代」。「巨人・大鵬・卵焼き」 |
| 昭和 | 1969年5月 | 勝負の判定に、ビデオを参考資料として使い始める |
| 昭和 | 1972年7月 | 高見山が外国出身力士として初めて幕内優勝 |
| 昭和 | 1970年代後半 | 輪島と北の湖の「輪湖時代」 |
| 昭和 | 1981年 | 千代の富士が横綱となる |
| 昭和 | 1985年1月 | 両国国技館が開館。北の湖が引退 |
| 昭和 | 1988年3月 | 若乃花・貴乃花の兄弟がそろって初土俵 |
| 平成 | 1993年 | 曙が外国出身力士として初めて横綱となる |
| 平成 | 1990年代 | 「若貴ブーム」。兄弟そろって横綱に |
| 平成 | 2005年 | 朝青龍が史上初の年間全場所優勝 |
| 平成 | 2011年3月 | 八百長問題で春場所が中止 |
| 平成 | 2014年1月 | 公益財団法人日本相撲協会となる |
| 令和 | 2020年5月 | 新型コロナウイルスで夏場所が中止 |
| 令和 | 2025年 | 豊昇龍・大の里が横綱に。12月に日本相撲協会が財団法人設立100周年 |
| 令和 | 2026年9月 | 横綱・大の里が九月場所で優勝 |
参考:日本相撲協会/『相撲大事典』/『全部わかる大相撲ガイド』
相撲はいつから?「始まり」は4つに分けられる
「相撲はいつから始まったのか」という問いは、何を「始まり」とするかによって答えが変わります。年表から大きな区切りを4つ取り出すと、次のようになります。
- 起源:712年の『古事記』と720年の『日本書紀』に、相撲の起源とされる力くらべの説話が記される
- 宮中の行事:奈良時代から平安時代の終わり(1174年)まで、相撲節会が行われる
- 職業の相撲と興行:江戸時代に相撲を仕事にする人が現れ、勧進相撲が定期的に開かれる
- 今の協会につながる組織:1925年12月、財団法人大日本相撲協会が誕生する
つまり、「1500年以上の歴史」というときと、「今の相撲協会につながる組織の歴史」というときでは、数える起点が違います。最後の区切りから数えると、2025年で100年を迎えました。
2025年、日本相撲協会は財団法人設立100周年を迎えた
大正14年(1925年)12月28日に財団法人の設立を認められた大日本相撲協会は、令和7年(2025年)12月28日に財団法人設立100周年を迎えました。同じ年の10月には記念の「百周年場所」が開かれ、古式大相撲も30年ぶりに復活しています。
その100年を振り返る記念動画が、日本相撲協会の公式チャンネルにあります。
映像には、双葉山の時代から栃若、輪湖、千代の富士、若貴、コロナ禍を経て令和に至るまでの歩みが収められています。ロンドン公演などの海外での活動や、東日本大震災からの復興を祈って横綱が土俵入りをした場面も登場します。
見るときは、最後の場面にも注目してみてください。映像が残っている歴代横綱の土俵入りが、数秒ごとに切り替わっていきます。
日本相撲協会の歴史だけでも100年なんですね。私が観戦し始めたのは、その長い歴史の本当に最後の一部分なんだと思いました。
しかも相撲そのものは1500年以上。年表で並べると、100年と1500年の違いがよく分かります!
古代から大正まで。神事から興行、組織へ
相撲は、最初から今のような興行だったわけではありません。起源とされる神話の力くらべから始まり、古代には神事や宮中の行事として行われ、武士の時代には鍛錬にも使われました。
その後、江戸時代に職業として相撲を取る人が現れ、明治・大正には会場と組織が整っていきます。
神話の力くらべと、宮中の相撲節会
相撲の起源とされているのは、712年の『古事記』と720年の『日本書紀』に記された力くらべの神話です。野見宿禰と当麻蹶速が天皇の前で勝負をしたという伝説も、相撲の始まりとして語られています。
その後、相撲は農作物の収穫を占う祭りの儀式として行われ、やがて宮廷の行事になりました。
参考:日本相撲協会
それが、天皇が宮中で相撲を見る相撲節会(すまいのせちえ)です。天平6年(734年)ごろに宮中の行事として定着し、平安時代には諸国から集められた相撲人(すまいびと)が、およそ1か月をかけて稽古の検分から本番の取組まで行いました。
この相撲節会が、今の大相撲の原型とされています。しかし、内乱が続くなかで行事を続けられなくなり、承安4年(1174年)を最後に途絶えました。
参考:『相撲大事典』
武士の相撲と、織田信長の上覧相撲
鎌倉時代から戦国時代になると、相撲は武士の戦闘の訓練にも使われるようになります。神事や宮中の行事として行われてきた相撲が、戦う者の体を鍛える手段としても用いられた時代です。
将軍や大名の前で相撲を取らせる上覧相撲も、この時代に行われるようになりました。記録に残る最初の例とされるのは、文治5年(1189年)に源頼朝が開いた上覧相撲です。
参考:『相撲大事典』
なかでもよく知られているのが、織田信長の上覧相撲です。元亀・天正年間(1570〜92年)には、安土城などに各地から力士を集め、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えました。
参考:日本相撲協会
江戸の勧進相撲。谷風・小野川・雷電の時代
相撲を職業にする人が現れたのは、江戸時代です。浪人や力自慢の中から相撲を仕事にする人たちが出て、各地で勧進相撲が開かれるようになりました。貞享元年(1684年)には、深川八幡宮での勧進相撲が許可されています。
勧進相撲(かんじんずもう)の「勧進」とは、寺や神社の建立・修繕のために寄付を募ることです。相撲も室町時代から、寄付を集める名目の興行として行われていました。
やがて本来の目的は薄れ、観客からお金を取って見せる興行として発展していきます。江戸時代の番付にも「勧進相撲」「勧進大相撲」と記され、江戸中期にはこうした興行が定期的に行われるようになりました。
その人気を押し上げたのが、谷風・小野川・雷電の3人です。寛政3年(1791年)6月には、11代将軍・徳川家斉が江戸城吹上で上覧相撲を開きました。
三人の活躍によって人気が高まり、相撲は歌舞伎と並ぶ庶民の娯楽へ成長していきます。今の大相撲につながる仕組みや文化の多くが、この時代に形づくられました。
土俵入り、番付表、化粧廻し、髷、着物など、江戸時代から受け継がれているものは、令和の大相撲にも残っています。
参考:日本相撲協会/『相撲大事典』
拙者の頃は、雨が降れば興行そのものができぬこともあった。今は屋根の下で十五日の取組が続く。会場も日程も、大きく変わったものである。
それでも、番付や土俵入りのように、江戸の頃から形を残しているものもある。昔と今を見比べるのも、相撲の面白さであるぞ。
ちなみに、この3人のうち雷電は、並外れた体格でも知られた力士です。実際の身長と体重がどれほどだったのかは、別の記事で書いています。
1925年、財団法人大日本相撲協会の誕生
江戸時代に興行としての基礎ができた相撲ですが、明治の終わりから大正にかけては、関東大震災や不況などもあり、人気が伸び悩む時期がありました。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』
それでも、大相撲を支える土台は整っていきます。明治42年(1909年)6月には、両国の回向院の一画に国技館が開館しました。
屋根のある会場で相撲を取れるようになったことで、江戸時代から続いていた「晴天十日」の興行は、天候に左右されず10日間行う形へ変わります。
そして大正14年(1925年)12月、財団法人大日本相撲協会が誕生しました。昭和2年(1927年)1月には東京と大阪の両相撲協会が合併し、今の日本相撲協会につながる組織が整っていきます。
昭和の相撲ブーム。双葉山からテレビ中継へ
組織が整った昭和には、相撲の楽しみ方そのものも変わっていきます。会場へ行かなければ見られなかった取組が、まずラジオで、そしてテレビで家庭へ届くようになりました。
その前に、大きな人気を集めたのが双葉山の連勝です。
戦時下の双葉山と69連勝
昭和11年(1936年)一月場所、双葉山の連勝が始まりました。勝ち続けたまま、昭和13年(1938年)一月場所からは第35代横綱として土俵に上がります。
連勝が止まったのは、昭和14年(1939年)一月場所。記録は69連勝でした。
このころ、日本は戦争へ向かう時代に入っていました。連勝が止まった場所の番付を見ると、一部の力士名の上に「入営」「応召」と記されています。
出征する兵士へ贈る日章旗に、力士が寄書きをすることもありました。昭和17年の写真に残る日章旗には、双葉山ら12人の署名が見えます。力士の寄書きには百人力が宿ると信じられ、大切にされました。
双葉山の69連勝は、戦争へ向かう時代の中で、人々が明るい話題として追いかけた記録です。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
国技館を失った戦後
戦争が続くなかでも興行は行われましたが、1944年2月には国技館が軍に接収されます。翌1945年3月の空襲で建物は被害を受け、終戦後には進駐軍の施設となりました。
国技館を失った本場所は、その後、仮設の会場を転々とします。東京場所が落ち着きを取り戻すのは、1950年1月から建設中の蔵前国技館で本場所を開くようになってからです。蔵前国技館が完成したのは、昭和29年(1954年)9月でした。
この時期には、土俵の見た目も今に近づいています。昭和27年(1952年)9月に四本柱が撤廃され、吊屋根から四色の房を下げる今の形になりました。
参考:日本相撲協会
蔵前国技館が建てられた背景や、閉館から跡地の今までは、こちらの記事で詳しく書いています。
1953年のテレビ中継と栃若時代
昭和28年(1953年)五月場所から、大相撲のテレビ中継が始まりました。それまで会場へ足を運ばなければ見られなかった取組を、家庭で見られるようになります。そこから「テレビ桟敷」「茶の間桟敷」という言葉も生まれました。
そのテレビの画面で人気を集めたのが、1950年代後半の栃錦(第44代横綱)と初代若乃花(第45代横綱)です。二人が競い合った時代は、「栃若時代」と呼ばれています。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
本場所の数も、この時期に今と同じ年6場所になります。昭和32年(1957年)に九州場所、翌33年(1958年)に名古屋場所が加わり、1年に6回、ひいきの力士をテレビで追いかけられる環境がそろいました。
参考:『相撲大事典』/NHK
年6場所って、場所が終われば、もう次の場所へ向けて動き出す間隔なんだよなぁ。
見る側からすれば、2か月ごとに本場所が来る。
取る側からすれば、一つ終わったと思ったら、また次の番付と場所が待っている。
このリズムが、今までずっと続いているんだよ。
柏鵬時代、輪湖時代、千代の富士。昭和30〜60年代
テレビ中継が家庭に定着すると、人気を集める力士の顔も全国に知られるようになります。栃若の次には柏鵬、さらに輪湖。昭和の終わりには、千代の富士が土俵の中心へ立ちました。
柏鵬時代と「巨人・大鵬・卵焼き」
1960年代の主役は、柏戸(第47代横綱)と大鵬(第48代横綱)です。二人の初顔合わせは1960年初場所12日目で、新入幕で初日から11連勝していた大鵬を、小結の柏戸が止めました。
ここから、二人は土俵の上で競い合っていきます。その時代は「柏鵬時代」と呼ばれ、子どもの好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉も広まりました。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』
「巨人・大鵬・卵焼き」がいつの言葉なのか、大鵬がどれほど強かったのかは、別の記事で詳しく書いています。
初の外国出身の関取・高見山
柏鵬時代のさなかには、外国出身の力士も番付を上げていました。ハワイ出身の高見山は1967年三月場所に十両へ上がり、外国出身力士として初めて関取になります。
翌1968年一月場所には幕内に入り、1972年の名古屋場所では外国出身力士として初めて幕内優勝しました。外国出身力士が大相撲の上位で活躍していく流れの、大きな節目になった力士です。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』
高見山から現役の力士まで、歴代の外国出身力士を国別に並べた記事はこちらです。
輪湖時代。輪島と北の湖
昭和50年代に土俵の中心へ立ったのが、輪島(第54代横綱)と北の湖(第55代横綱)です。輪島は大学相撲を経て角界へ入り、北の湖は史上最年少で横綱に昇進しました。
二人が競い合った時代は「輪湖時代」と呼ばれています。15場所連続で、千秋楽の結びの一番は輪島と北の湖の対戦でした。
1年に6場所ですから、約2年半にわたって、本場所の最後の一番で二人が顔を合わせ続けたことになります。
栃若、柏鵬に続き、二人の横綱が競い合う構図が、輪湖時代にも相撲人気を支えました。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
千代の富士と両国国技館
昭和56年(1981年)三月場所で輪島が引退すると、土俵は北の湖の時代になります。同じ年の九月場所には、千代の富士(第58代横綱)が横綱として最初の場所を迎えました。
そして昭和60年(1985年)1月、今の両国国技館が開館します。その最初の本場所で北の湖が引退し、昭和後期の土俵は千代の富士が中心となる時代へ移っていきました。
今の両国国技館の開館と、千代の富士が横綱として活躍した時代は重なっています。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
栃若、柏鵬、輪湖と、二人の横綱が競い合う時代が何度もあったんですね。輪島と北の湖の結びが15場所も続いたと知ると、当時のファンが千秋楽を楽しみにしていた理由が少し分かる気がします。
今の両国国技館が千代の富士の時代にできた建物だというのも、次に行ったとき思い出しそうです♪
若貴ブーム。元力士が入門を決めた平成の熱狂
平成に入ると、相撲人気を大きく押し上げる兄弟が現れます。若乃花と貴乃花です。
二人の活躍で起きた「若貴ブーム」は、僕自身が相撲界へ入るきっかけにもなりました。
1988年に初土俵、兄弟そろって横綱へ
若乃花と貴乃花の兄弟が初土俵を踏んだのは、1988年(昭和63年)春場所です。先に弟の貴乃花が第65代、あとから兄の若乃花が第66代の横綱になりました。
兄弟で番付を駆け上がり、やがて二人とも横綱になる。若貴ブームは、その道のりとともにありました。
貴乃花が横綱として最初の場所を迎えたのは平成7年(1995年)一月場所、若乃花は平成10年(1998年)七月場所です。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
1990年代は、この兄弟を中心に相撲人気がかつてない高さになり、力士がアイドルのように扱われた時代です。同じ1990年代には、ハワイ出身の曙(第64代横綱)と武蔵丸(第67代横綱)も横綱になっています。
曙は、外国出身力士として初めて横綱になった力士です。横綱として最初の場所は、平成5年(1993年)三月場所でした。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
若貴ブームが入門のきっかけだった
若貴の二人が、当時どんな気持ちで土俵に上がっていたのかは、僕には分かりません。ここからは若貴本人ではなく、その姿をテレビで見ていた僕の話です。
若貴の二人を、僕は国技館ではなくテレビで見ていました。
本場所の中継だけではありません。
ニュースで取り上げられれば見る。
密着番組が放送されれば、それも見る。
僕にとって、相撲を知る最初の場所は土俵の前ではなく、テレビの前でした。
テレビの前にいた僕を、相撲部屋の門まで連れていったのが若貴ブームでした。
若貴ブームをきっかけに、どれほどの人が入門したのかは、僕には分かりません。ただ、少なくとも僕は、その時代に背中を押された一人でした。
入門のきっかけは人それぞれだけど、テレビで見た力士に憧れて入る人もいるんだよなぁ。
ただ、部屋に入ったその日からは別の世界だ。憧れた横綱と同じ番付表に名前を載せるために、一番下から四股とてっぽうを繰り返す。そこから本当の相撲人生が始まるんだよ。
モンゴル勢の時代から、令和の大の里・豊昇龍へ
若貴ブームのあとも、土俵の主役は変わり続けます。2000年代にはモンゴル出身の横綱が次々と生まれ、その一方で、不祥事や新型コロナウイルスによる本場所の中止も経験しました。
そして2026年10月時点では、豊昇龍と大の里の2横綱が土俵に立っています。
朝青龍・白鵬とモンゴル出身力士
2000年ごろからは、モンゴル出身力士が台頭します。朝青龍が第68代横綱、白鵬が第69代横綱へ昇進し、2005年には朝青龍が史上初の年間全場所優勝を成し遂げました。
モンゴルだけではありません。ヨーロッパからも、ブルガリア出身の琴欧洲とエストニア出身の把瑠都が大関まで上がっています。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/日本相撲協会
モンゴル出身力士が、最初の6人から現役の全員までどのように広がったのかは、別の記事で一覧にしています。
不祥事と本場所の中止
一方で、2010年前後には不祥事が続き、人気に影が差します。2011年の春場所は八百長問題で中止となり、本場所そのものが開かれない事態になりました。
その後、2020年の夏場所も、新型コロナウイルスの感染拡大で中止されています。理由はまったく違いますが、どちらも本場所が開かれなかった出来事として年表に残っています。
参考:『全部わかる大相撲ガイド』/デイリースポーツ
令和の2横綱、大の里と豊昇龍
2026年10月時点で、横綱は豊昇龍関と大の里関の2人です。豊昇龍はモンゴル・ウランバートル出身で、第74代横綱として令和7年(2025年)三月場所を迎えました。
大の里は石川県河北郡津幡町の出身で、第75代横綱として同じ年の七月場所を迎えています。2026年九月場所では、東横綱の大の里が12勝3敗で幕内優勝しました。
モンゴル出身の横綱と日本出身の横綱が、同じ土俵で優勝を争う。それが、年表の終わりに立っている令和の相撲です。
さらに、過去の時代と今を家系でつなぐ力士もいます。大鵬の孫の王鵬関です。父は元関脇・貴闘力で、王鵬自身も2025年に関脇まで上がりました。2026年九月場所の番付は東前頭十枚目です。
参考:日本相撲協会
年表の最後に大の里関や豊昇龍関の名前が並んでいるのを見ると、今見ている相撲も歴史の続きなんだと分かります。
王鵬関のおじいさんが大鵬だと知ると、1960年代の柏鵬時代も急に今とつながりますね。昔の話だと思っていた時代が、今の土俵まで続いているんだと思いました♪
王鵬がどんな家に生まれ、どのような相撲で関脇まで上がったのかは、こちらの記事で書いています。
相撲の歴史に関するよくある質問
最後に、相撲の歴史でつまずきやすい疑問を6つ取り上げます。
Q1. 相撲の歴史は何年ですか?
A. 日本相撲協会は、相撲を1500年以上の歴史を持つものとして紹介しています。起源とされているのは、712年の『古事記』と720年の『日本書紀』に記された力くらべの神話です。
Q2. 相撲はいつから始まりましたか?
A. 現存する古い文献では、『古事記』『日本書紀』に、相撲の起源とされる力くらべの説話が記されています。
その後、収穫を占う祭りの儀式などとして行われ、奈良時代から平安時代の終わりまでは、天皇が宮中で相撲を見る「相撲節会」が続きました。
Q3. 大相撲(プロの興行)はいつから始まりましたか?
A. 職業として相撲を取る人が現れたのは江戸時代です。寺社への寄付を名目にした勧進相撲が各地で開かれ、江戸中期には定期的な興行となりました。
今の日本相撲協会につながる組織は、大正14年(1925年)12月に財団法人大日本相撲協会として誕生しています。
Q4. 相撲ブームはなぜ起きたのですか?
A. 昭和以降のブームの大きな背景としては、ラジオとテレビの中継で取組に触れる機会が広がったことと、時代を象徴する横綱どうしの競い合いが挙げられます。
1953年のテレビ中継開始のあと、栃若、柏鵬、輪湖と二人の横綱が競う時代が続きました。平成に入ると、若乃花・貴乃花の兄弟が番付を駆け上がるなかで若貴ブームが起こり、のちに二人とも横綱になっています。
Q5. 年6場所になったのはいつですか?
A. 昭和33年(1958年)からです。前年の1957年に九州場所が加わって年5場所となり、1958年に名古屋場所が加わって今と同じ年6場所になりました。
それぞれの場所の歴史と開催地は、こちらの記事で一覧にしています。
Q6. 両国国技館はいつからありますか?
A. 今の両国国技館は、昭和60年(1985年)1月に開館しました。それ以前の東京場所は、昭和29年(1954年)9月に完成した蔵前国技館で開かれていました。
まとめ
年表で並べてみると、相撲が人気を取り戻すたびに、取組を届ける手段が増えていたことに気づきます。ラジオ、テレビ、そしてニュースや密着番組。
僕が若乃花と貴乃花を見ていたのも、その画面を通してでした。二人がきっかけで、僕は相撲部屋の門を叩いています。
令和の横綱も、いつか誰かの「あの時代」になります。次に本場所を見るときは、目の前の取組が何十年か先に語られるところを想像してみてください。
拙者の頃にも谷風や小野川がおり、その取組を楽しみに待つ人々がいた。
時代が変われば、力士の名も、相撲を見る方法も変わる。されど、次の一番を楽しみに待つ人がいるかぎり、相撲の歴史はその先へ続いていくのである。
いまはその『相撲』が楽天マガジンの読み放題に入っていて、1冊買うより安く読めます。
- 1952年創刊、日本相撲協会の機関誌
- 本場所前に展望号、本場所後に総決算号が刊行。場所ごとの流れを追える
- 4,000誌・15,000冊以上が読み放題。バックナンバーも対象
- 無料期間のあとは自動更新(Webからの申し込みは月額597円・税込、アプリからは月額710円・税込)。電子版は一部の記事・写真と別冊付録が非掲載

















