土左衛門の由来は江戸の力士の名前?成瀬川土左衛門を元力士が解説
ただ、僕はその内容をほとんど覚えていません。
朝から稽古で体を動かしたあとだったので、机に向かうころには眠気が押し寄せてきます。
「起きていないと」
そう思っても、気づけば居眠りをしていました。何を習ったのか分からないまま、授業を終えることもあります。
それでも、谷風や雷電について習った記憶はあります。どちらも、強さで相撲史に名を残した力士です。
成瀬川土左衛門の話もあったのかもしれませんが、こちらはまったく記憶に残っていません。
こんにちは!元力士のしんざぶろうです。
水死体を「土左衛門」と呼ぶ言い方を、どこかで耳にしたことがあるでしょうか。
ずいぶん物騒な言葉ですが、その由来をたどっていくと、江戸時代に土俵へ上がっていた力士の名前に行き着くといわれています。
その力士が、成瀬川土左衛門です。
ところが、後世に伝わったのは取組での活躍よりも、「色白く太っていた」という体つきのほうでした。強さで名を残した谷風や雷電とは、名前の残り方がまるで違います。
この記事では、成瀬川土左衛門がどんな力士だったのか、そして「土左衛門」という言葉との関係が、史料からどこまで確かめられるのかを解説します。
土左衛門って、そういう意味の言葉だとは知っていました。
でも、もとが力士のお名前だったなんて。
江戸時代の番付に、本当に載っている人なんですね。
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成瀬川土左衛門とはどんな力士だったのか
成瀬川土左衛門は、享保期(1716年〜1736年)の江戸相撲の力士です。色が白く、大変太った角力取りだったと伝わります。
番付での位置がわかっているのは、享保9年(1724年)6月、江戸・深川の富岡八幡宮で開かれた勧進相撲です。この興行で、成瀬川は東方前頭筆頭に位置していました。
享保9年6月の深川の興行は、この時期の江戸相撲の記録として名前が挙がるもののひとつです。興行の記録そのものが乏しい時代に、成瀬川は、その数少ない記録のひとつに名を残しました。
参考:『相撲大事典』第4版、金指基 原著、現代書館/文化デジタルライブラリー(日本芸術文化振興会)/『相撲大全』山田春塘 編、服部書店、明治34年(国立国会図書館デジタルコレクション)
大関が最高位だった時代の「前頭筆頭」
「前頭筆頭」という位置は、当時と後の時代とで重みが変わります。
横綱が正式に最高位となったのは、明治42年(1909年)です。それ以前は大関が最高位で、三役といえば小結以上を指しました。
番付の並びは、大関・関脇・小結と続き、その下に前頭が置かれます。前頭筆頭は、その前頭の先頭にあたる位置です。
この並び方は、成瀬川より前から成立していました。元禄年間(1688年〜1704年)の番付には大関・関脇・小結・前頭の順で力士名が記されており、京都・大阪の勧進相撲の番付には「関脇」の文字も見られます。
つまり成瀬川がいたのは、大関を頂点とする番付の、三役に次ぐ位置でした。
なお、この大関・関脇・小結・前頭という並びは、その後の大相撲にも受け継がれています。番付の仕組みそのものは、こちらの記事で書いています。
「東方」は、東と西が別の紙だった時代の書き方
「東方前頭筆頭」という書き方も、当時の番付の形と結びついています。
紙に刷られた番付で確認されている最古のものは、正徳年間(1711年〜1716年)に作られたものです。初期の紙の番付は、横長の紙2枚のうち、1枚に「東之方」、もう1枚に「西之方」の力士名を書く形式でした。
1枚の紙を縦に左右へ分ける形式が江戸で作られるのは、宝暦7年(1757年)です。成瀬川が土俵に上がった33年後にあたり、この形式が後の番付に踏襲されていきます。
「東方」という書き方は、東と西が別々の紙に刷られていた時代の形をそのまま映しています。
わかっていないこと
成瀬川について確かめられるのは、ここまでです。
生没年ははっきりしません。出身地については、『近世奇跡考』に「奥州産」、つまり奥州の出身と記されています。
ただし奥州は陸奥国の呼び名で、東北地方にあたる広い範囲を指します。どの土地の生まれかまではわかりません。
勝ち負けの記録も残っておらず、強かったのかどうかを語る材料が、そもそも手元にないのです。
さらに、東方前頭筆頭という位置も、当時の番付の現物で確かめられたものではありません。80年ほど後に書かれた『近世奇跡考』(山東京伝、文化元年=1804年)に、そう書き留められている、という形で伝わっています。
※スマートフォンでは、表を横にスクロールできます
| 成瀬川土左衛門について | 伝わり方 |
|---|---|
| 体つき(色白く太っていた) | 伝わっている |
| 享保9年6月の番付の位置(東方前頭筆頭) | 『近世奇跡考』に書き留められている |
| 生没年 | はっきりしない |
| 出身地 | 『近世奇跡考』に「奥州産」とある。具体的な土地は不明 |
| 勝敗・成績 | 残っていない |
うむ。生まれた年すら分からぬというのは、成瀬川が軽んじられたからではない。
享保のころは、興行の記録そのものが数えるほどしか残っておらぬのだ。
一方、同じ江戸時代でも、強さのほうで名を残した力士がいます。体の大きさと記録で語られる雷電為右衛門については、こちらの記事で書いています。
なぜ水死体を「土左衛門」と呼ぶのか
水死体を「土左衛門」と呼ぶ言い方は、成瀬川土左衛門の名に由来するといわれます。
由来として伝わっているのは、体つきの見立てです。水死して全身が膨れた遺体を、色が白く大変太っていた成瀬川の体つきになぞらえました。
はじめは戯れにそう呼ばれました。それがついに江戸の方言になった、と説明されています。
成瀬川自身の溺死が語源になったわけではない
名前の由来をたどっていくと、成瀬川自身が水に落ちて亡くなったように思えてきます。
けれども、『近世奇跡考』が説明しているのは、体つきの見立てのほうです。成瀬川の死因が語源になったわけではありません。
呼び名になったのは、似ていたからでした。土俵でどんな相撲を取ったかではなく、体つきのほうが言葉として残っています。
亡くなり方ではなくて、体つきのほうがお名前を残したんですね。
ご本人にしてみたら、ちょっと気の毒かもしれません。
書き留めたのは、享保9年から80年後に出た本
では、この由来はどこまで確かなのでしょうか。
書き留めたのは、文化元年(1804年)に山東京伝が著した『近世奇跡考』です。京伝はこの本で近世初期の事物を考証し、些細なことでも典拠が得られなければ載せない、と自ら断っています。
それでも、成瀬川が土俵に上がった享保9年からは80年が経っています。言葉が生まれた現場を見た人の記録ではありません。
参考:『相撲大事典』第4版、金指基 原著、現代書館/文化デジタルライブラリー(日本芸術文化振興会)/『近世奇跡考』山東京伝、文化元年(1804年)(国立国会図書館デジタルコレクション)
京伝という男、典拠なきものは載せぬと自ら断っておる。
それでも、成瀬川が土俵に立ってから八十年。その隔たりばかりは埋めようがない。
成瀬川が相撲を取った富岡八幡宮は、いまも大相撲とつながっている
成瀬川が東方前頭筆頭に位置した興行が開かれたのは、江戸・深川の富岡八幡宮です。この神社は、江戸勧進相撲発祥の地として知られています。
貞享元年(1684年)、幕府から春と秋の2場所の勧進相撲が許され、その舞台になったのが富岡八幡宮の境内でした。許可を得て興行を打ったのが、雷権太夫です。
以降およそ100年にわたって本場所が境内でおこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。成瀬川が出た享保9年6月の興行も、この100年の中にあります。
参考:富岡八幡宮「相撲と富岡八幡宮」/『相撲大事典』第4版、金指基 原著、現代書館
横綱力士碑と、新横綱の刻名式
その境内には、新しい横綱が生まれるたびに名が刻まれていく石碑があります。
明治33年、第12代横綱・陣幕久五郎を発起人として、歴代横綱を顕彰する横綱力士碑が建立されました。新横綱が誕生すると、日本相撲協会立会いのもとで刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。
その刻名式で新横綱が何をするのかは、日本相撲協会公式Xの投稿で見ることができます。2017年6月9日、横綱・稀勢の里が富岡八幡宮で土俵入りを奉納した日のものです。太刀持ちと露払いを務めた力士にも注目してみてください。
<富岡八幡宮刻名式>稀勢の里 横綱土俵入り。太刀持ち 松鳳山、露払い 輝。 #sumo
— 日本相撲協会公式 (@sumokyokai) June 9, 2017
石碑に名が刻まれるのは、横綱になった力士だけです。
成瀬川が土俵に上がったのは同じ境内ですが、前頭筆頭の名前は石には残りません。
成瀬川の名が残ったのは、石ではなく言葉のほうでした。
なお、勧進相撲を許された雷権太夫は、年寄名跡「雷」の初代と伝えられています。雷という名跡と、その名を継いだ親方については、こちらの記事で書いています。
成瀬川土左衛門に関するよくある質問
土左衛門という言葉には、読み方や成瀬川本人の死因など、引っかかりやすい点がいくつかあります。
Q1. 土左衛門はなんと読むのですか?
A. 「どざえもん」と読みます。水死体を俗にこう呼びます。力士の名前も同じ読みで、「成瀬川土左衛門(なるせがわ どざえもん)」です。
Q2. 成瀬川土左衛門は溺死したのですか?
A. 成瀬川の死因が語源になったわけではありません。『近世奇跡考』が説明しているのは、水死して全身が膨れた遺体を、色が白く大変太っていた成瀬川の体つきになぞらえた、という見立てのほうです。
Q3. 成瀬川土左衛門はどのくらい強かったのですか?
A. 勝ち負けの記録は伝わっていません。確かめられるのは、享保9年(1724年)6月の勧進相撲で東方前頭筆頭に位置したことです。
当時は大関が最高位で、三役は小結以上を指しました。前頭筆頭は、その三役に次ぐ位置になります。
Q4. 「土左衛門」の語源は、確かなことなのですか?
A. 由来を書き留めた『近世奇跡考』が世に出たのは、文化元年(1804年)で、成瀬川が土俵に上がった享保9年から80年ほど後にあたります。語源が確定しているわけではなく、「由来するといわれる」という形で伝わっています。
Q5. 成瀬川土左衛門が相撲を取った場所は今もありますか?
A. 江戸・深川の富岡八幡宮です。江戸勧進相撲発祥の地として知られ、境内には歴代横綱を顕彰する横綱力士碑があります。
新横綱が誕生すると、刻名式と土俵入りの奉納がこの境内でおこなわれます。
まとめ
水死体を指す「土左衛門」は、享保期の江戸相撲にいた成瀬川土左衛門の名に由来するといわれます。色が白く大変太っていたその体つきが、膨れた遺体になぞらえられ、戯れの言い方がついに江戸の方言になりました。
確かめられるのは、享保9年6月の勧進相撲で東方前頭筆頭に位置したことまでです。勝ち負けの記録は残っていません。しかも由来を書き留めた『近世奇跡考』が世に出たのは、その興行から80年後でした。
力士の名が言葉として残る道は、ひとつではないようです。谷風や雷電は強さで名を残し、成瀬川は体つきで名を残しました。
成瀬川が土俵に上がった富岡八幡宮では、新しい横綱が生まれるたびに石碑へ名が刻まれています。300年前の力士の名前が、思いがけない形で言葉の中に生き残っています。水辺の物騒な呼び名の向こうに、深川の土俵をひとつ思い浮かべてみてください。
強き者の名が残るのは道理なり。されど成瀬川の名は、そうではない形で残った。
三百年の後まで人の口に上るという一点においては、勝る劣るもないと拙者は思うておる。

















